top of page

Acerca de

第二章
「先生」

プロローグ 「お気に召すまま」

最近よく夢をみる。

 

 その世界は緑に染まったかと思えば、赤に覆い尽くされ、再び緑に戻る。

その景色が永遠に繰り返されている。

 私はまた一人で蹲った。そして細い腕で膝をぎゅっと抱き寄せる。

『お嬢さん』

 優しい声と一緒に手が差し伸べられる。

 私は、躊躇いながらも応える。

 

 あたたかく、懐かしいその手に、自分の小さな手を重ねるのだ。

小説 「先生」

蝉の鳴き声も、すぐ傍に感じていたような太陽も遠のいた頃。

「ミコトくん、そろそろ帰ってくるのだけどお客様もいるようで、お茶の用意をお願いしてもいいかしら」

「かしこまりました奥様」

 僕も此処での“お世話係”として板についてきたものだった。

 空を反射させた色をしたガラス皿を食器棚へと片し、いつ旦那様たちがお戻りになっても問題のないよう、茶菓子や湯のみの支度を始める。

 しかしお客様が来るとは珍しい。いや、旦那様と奥様のことだから、僕に気を使ってくれていたのかもしれない。

 窓から吹き込んでくる九月の空気は、どこか十分すぎるほど透き通っていた。

 

 

*****

 

 

 その人は突然我が家にやって来た。

 もっと正確に言うなら、私のお世話係さんとしてお父様が連れて来た。お母様のように真っ黒な髪をした男の人のような女の人のような、よく分からない人だとお母様の後ろに隠れながら思ったのだ。

 その人は「ミコトくん」と言い、お父様のお仕事の帰りに偶然出会ったらしい。その時は理解しきれなかったけれど、ミコトくんには帰る家がないことをあとから知った。   

「これからよろしくお願い致します」

 そう言ってミコトくんは片膝をつき、にこやかに握手を求めてきた。お母様のお洋服の裾をぎゅっと握る。

 

 この人はどこから来たのかな。

 この人はどんな人なのかな。

 この人には家族がいないのかな。

 この人と仲良くできるかな。

 

 体はどきどきしていて、頭の中ではぐるぐるとコマが回っていた。

 私はお母様に背中を押されて恐る恐る前に出た。近くで見たその手は、うっかり割ってしまった白い食器によく似ていた。

 とんとんとまた背中を叩かれる。どうしていいか分からなくて、向かいにいるお父様の顔を見上げた。

 そのときのお父様は、私の誕生日をお祝いするときと同じような表情をしていた。振り返ったお母様も似た顔をしており、きっとミコトくんが来たことは嬉しいことなのだろうと幼いながら思ったのだが、その時はまだ心から喜べなかった。

 臆病な私にとって「分からない」ことは怖いものだったから。  

「どうかなさいましたか。お嬢さん」

 まだ聞きなれない声にハッとして、同じ高さにある目と目が合った。不思議な瞳の色に映った小さな私をはっきり覚えている。同時に胸に変なものが引っかかり、どきどきが止まったことも。

「……ねえねえ」

 ようやく私が口を開くとミコトくんは首を傾けた。

 

「わたし、おじょうさんってなまえじゃ……ないよ」

 

 思ったことを口にすれば、ミコトくんはぱちぱちと瞬きをして手を引っ込めた。不思議な色はもっと不思議な色になった気がして、思わず身を引いてしまう。

「これは失礼致しました」

 ミコトくんは姿勢を更に低くし私を見上げる。

「改めてお名前をお聞きしてもよろしいですか」

「わたしのなまえはね――」

 

 

*****

 

 

 程なくしてお嬢さんの無邪気な声が玄関から響く。

「おかあさまー!」

 パタパタと足音を鳴らし居間へと駆け込んできたお嬢さんの様子を見るからに、長野での療養はお体に合っていたのだろう。

 だが僕はひとつ気になることがあった。

「見て! いただいたの!」

 聞くよりも先にお嬢さんは手に持っていたそれを、奥様に意気揚々と見せる。此方を出発するときには持っていなかったそれは、文化人形と呼ぶにはあまりに動物じみており、この国ではなかなか見かけない代物だった。

「あらあら先生に頂いたの?」

「うん!」

 先生とは長野の別荘にいたというお世話係のことだろうか。この家の関係者ならば外国と交流のある人でもおかしくない話だ。

「かわいいね~」

 お嬢さんはニコニコとそれを抱きしめる。余程お気に召しているらしい。出会ったときから少しずつ感情を見せてくれるようになったお嬢さんだが、こんなにも上機嫌な姿は初めてだった。

「頂いたときからずっとこの調子でね」

 そのようなお嬢さんに気を取られている間に、旦那様もお戻りになられた。早足で歩み寄り手荷物を受け取ろうとすると、旦那様の後ろに立つお客様と思わしき長身の男性が目に入った。

「私としては、気に入ってもらえて嬉しく思うよ」

 独特な発声。旦那様の淡い栗色の髪よりも目を引く、檸檬色をした長髪の男性は見るからにして異国の人物だと判断できた。ガラス皿よりも澄んだ青色をした瞳がこちらを見据える。

 お二人の手荷物を預かった僕はゆっくりと頭を下げた。

「ミコトくん、ミコトくん」

 ぐいぐいと後ろから裾を引っ張られ振り返る。

「あのね、せんせいはね、すごいんだよ!」

 お嬢さんは両手を高くあげた。眼前に迫った動物の人形が視界いっぱいに映る。

 「あのねあのね」とお嬢さんが喋るたびに、まるで動物が話しているように見えてしまい頬が緩む。

 その場にしゃがみこみお嬢さんと顔を合わせる。

「お茶のご用意ができましたら、たくさんお聞かせください」

「うん! やくそくね」

 するとお嬢さんは、僕の横を抜けてお客様――先生の元へと駆け寄る。

「せんせい、こっち、こっち」

 細い腕に人形を抱えながら、あいている手で先生の手を引いていくお嬢さんの瞳はビードロ玉の如く爛々と煌めいていた。

bottom of page