top of page

Acerca de

第五章
「夕焼けの記憶」

プロローグ 「阿吽のビーツ」

ほんの僅かな時間だとしても    

 

君と言葉を交わすことを拒んでしまっていた自分を    

 

恨まずにいられない     

 

どんなに懺悔しても    

 

あの時に戻ることはできない    

 

それならば     

 

君の影を忘れずにいることが    

 

せめてもの償いになるだろうか

第5章「夕焼けの記憶

 ――今でも思い出す。瞼の裏まで焼かれるような夏の赤い夕暮れを。  

隣を歩いているミコトくんは、その陽光を背に浴びて楽しそうに話す。

『明葉には特等席を用意しておいたよ』  

そう言って差し出された演奏会の招待券。

『ありがとう!』  

私にはそれが、どんなに名の知れた音楽家たちの演奏会よりも価値があるものであり、同時に、隣にいる友人を遠くに連れて行ってしまう切符のようにも思えてしまった。  

先生みたいに、ミコトくんも手の届かない所へ行ってしまうんじゃないか。  

そんな焦燥感が、一瞬込み上げたのだ。

『本番が待ち遠しいなあ』  

しかしそれも、ミコトくんの心の底から嬉しそうな笑顔を見れば、静かに消え去っていく。

『九月一日なんてすぐだよ。もう半月もないんだし』

『それもそうだね』

『ミコトくんなら大丈夫だよ!』  

私は一番近くでミコトくんの努力を見てきた。いつもは飄々としている友人の懸命な姿は、夕暮れの鮮やかさにも引けを取らないほど明確に覚えている。  ミコトくんが私のことを見守ってくれているように、私もいつまでもミコトくんの夢を見届けたい。

――そう思っていた。    

 

*****

​​

 拝啓 ローシー先生  炎天が続いておりましたが、お身体にお変わりはないでしょうか。  

先生と最後に会ってから、時の流れは早いと言うもので、あっという間に二度目の夏が終わりを迎えようとしています。他の先生にバレエを教わるようになってからも、多くの学びがありました。  

それでも、それだからこそ、よりローシー先生のバレエの魅力に気付かされるのです。  

見ていると心に羽が生えたかのようにうきうきとして、キラキラとした魔法にかかる先生のバレエは、他の先生から学ぶことができません。  

やっぱり私は、ローシー先生に習いたいです。  

私の理想とするバレリーナの姿になるためには、先生のお言葉が必要です。  学校を卒業をした後どうするか、今までずっと悩んでいました。  

けど今ならはっきりと分かります。  

これも、いつも共にいてくれた友人が自らの夢へと歩みを進めているのを、近くで見れたおかげだと思います。 必ず、先生に会いに行きます。見つけてみせます。  

待っていてください。    

 

丁寧に便箋を折りたたみ小花の模様があしらわれた封筒に入れた。丁寧に封をする。そして机の引き出しをあけた。そこには宛名も切手もない封筒が積み重っている。  本当に、時間が経つのは早いなあ……。  

その一番上へ今の封筒を置いて、引き出しをしめた。そして、誰にも知られぬようにそっと鍵をかける。  

そう、誰にも知られてはいけないのだ。  

ローシー先生への想いが、“師”としての敬愛だけでないことも。

『素敵だよアキハ。キミのバレエは、水平線から昇る朝日の如く、眩い煌めきを見る者に与えるね。  とても綺麗だ』  

二年前。ローシー先生が突然いなくなってしまう前の最後の稽古の日。大袈裟な先生の褒め言葉に、私はどぎまぎしてしまい、まともに顔を合わすことすらできなかった。  

先生はバレエのことを褒めてくれていると分かってはいても、まるで私のことを綺麗だと言われているような気になってしまって……。

「女性としても、綺麗になれたかなあ……」  

鏡に顔を向けて零す。  長く伸ばした髪を見たら、先生は何と言うだろうか。  

都合のいい想像をしただけで鼓動が激しく打ち、耳が熱くなっていく。  

それを誤魔化すように窓の前へ足を向ければ、夜風に乗って伸びやかな歌声が聞こえてきた。

優しく差し込む月明かりが、机に置いてある招待券を照らしているようだった。    

 

*****​

 バレエの稽古が終わると、ミコトくんが迎えに来てくれる。それは友人だからとしてではなく、きっと私のお世話係りとして。

「ミコトくんお待たせ。ごめんね支度が遅くなっちゃって」

「そんな事ないよ。それより慌てて来て、忘れ物とかしてないかい」

「大丈夫。出てくる時何度も確かめたし」

「白鳥さーん髪留め忘れてるわよー」  

言うや否や、先生が駆け足でこちらに来る。

「すみませーん!」   

私は急いで自分から取りに向かう。  

後ろでミコトくんの呆れたような笑い声が聞こえた気がした。    

 

帰りの途中にある坂道から見る夕焼けは、今日も神々しい色をしている。

「明日も天気はよさそうだね」  

同じように夕日を眺めていたミコトくんが言う。

「来週の演奏会も、いい天気だといいね」

「うん」  

まっすぐ見つめるミコトくんの瞳は、その空の色を写していた。  

夕焼けは涼しげな青空に己の色を溶かしていく。私たちは何故だか、その景色に心を奪われたみたいに二人して足を止めて眺めていた。ゆっくりとゆっくりと、夕日が彼方へと沈んでいく。  

ヒグラシの鳴き声が。どこかの風鈴の音が。そこへと引き寄せられていく感覚。  

夏が終わるんだ。  

私は不意にそう思った。 

「これからどうするか、決まった?」  

ミコトくんが向こうを見つめたまま口を開く。  

優しく思いやるその声音も、夕日へと吸い込まれてくれたらどんなによかっただろう。

――もっとバレエの勉強をしたい。たくさんの人にバレエの魅力を伝えたい。  

問への答えは決まっているのに、唇は動かない。   

その時がいずれ訪れるのが分かっているからこそ、まだ目を背けていたかったのかもしれない。だからまだ、伝える決心は固まっていなかった。  

けどミコトくんには、先に伝えておかなくちゃいけない。  

ミコトくんならきっと、分かってくれる。ずっと私の良き理解者でいてくれたミコトくんなら。  

きゅっと右手を握りしめる。  

何よりも濃かった赤は甘い橙色を広げ、空の境界をぼかしていく。  

先生も、この空をどこかで見ているのかな。

「決まっていないなら、まだゆっくり考えて」 

「先生に会いに行こうと思うの」

「え……?」  

ミコトくんの言葉を遮るようにして、ハッキリと出てきた言葉。ミコトくんが顔を此方に向けたことに気づいていたけど、私は沈んでいく夕日を最後まで見届けていた。

「先生っていうのは」

「ローシー先生だよ」

「どこにいるのか分かったのかい?」

「ううん。それはまだ」

「だったら」

「でも、先生は必ずどこかにいるよ」  

空の色が混ざり合う。  

迷うことなく出てきた言葉に自分でも少し驚いた。

「いくら何でも無謀すぎる。手がかりもないたった一人の人物を見つけるだなんて。それにバレエの先生なら、今習っている先生がいるじゃないか。他の先生がいいなら、旦那様と奥様に相談して……」

「違うのミコトくん」   

捲したてるように話すミコトくんが珍しい。

私はゆっくりと振り向いて視線を重ねる。そしてもう一度強く拳を握った。

「私は、ローシー先生から教わりたいの」    

だって、初めてローシー先生と出会ったときからずっと、先生の“魔法”にかかっているのだから。​

いつもは穏やかな朱の瞳が大きく揺れて見える。 

「……だけど、どこにいるかも分からないとなると、元も子もないだろう。むやみやたらに探し回るつもりかい?」

「そうなるかもしれない。でもここで待っているだけじゃ、先生には会えないから。やれるだけやってみようかなって」  

緊張していたはずなのに、自分が思っていたよりもすんなりと言葉は紡がれていく。

「先生は特別だから」   

見上げると、空の高いところは沈んだ蒼色に染まろうとしている。

気づけばヒグラシの鳴き声はやみ、微かな静寂が流れた。肩の力が抜ける。  

言った。言ってしまった。誰にも話していなかった想いを。  

夕日が沈んでいった方へと風が走った。

「……――いい」  

不意に聞こえた言葉に胸がざわついた。慌てて隣に顔を向ける。ミコトくんは学生帽を深く被っていて、表情がよく見えない。

「ミコトくん……?」

「あの先生とはもう、関わらない方がいい」  

胸の奥底で何かが欠けた音がする。  

目の前にいるはずなのに、夕闇に紛れてしまいそうな姿は遠い。  

ミコトくんからその様なことを言われるのは初めてだった。ましてや先生が急にいなくなってしまった日。落ち込んだ私が泣き止むまで、一晩中寄り添ってくれていた。  

それなのに……。

「ど、して…………?」

「もうこの話はやめよう。早く帰らないと奥様を心配させてしまう」  

欠けたところから入った罅が深く深く侵食していく。  

私は踵を返そうとするミコトくんの腕を掴んだ。

「なんで……、なんでミコトくんが、そんな事を言うの……?」  

目頭が熱くなっていく。信じられない、信じたくない。

「……それが、明葉のためになるからだよ」   

背を向けたまま、静かに手を払われる。  涙が視界を滲ませていく。  

薄暗くなった道のなか。ミコトくんの後ろ姿は揺らめく影みたいに定かでなく、再び伸ばそうとした手を引っ込めた。

「先生と会わないことが私のためって、どういうこと?」  

雫は頬を伝っていく。  

ミコトくんは少し難しい話をよくする。それでもいつだって真剣に考えてくれて、私のことを考えてくれてるのはわかった。  

だけど今は分からない。ちゃんと言ってくれないと分からないよ。 

「……明葉は、もし先生が本物の魔法使いだったらどうする?」   

漸く振り向いたミコトくんの瞳が、薄闇のなかで紅く灯っているように見えた。妖艶な眼差しに思わず息を飲む。それこそ同じ人ではないような妖しさを感じてしまう。  

私が言葉に詰まっているとミコトくんは続ける。

「魔法や呪いといったものには、決まって代償や対価が伴う。それを自らが払うか、それとも……」  

紅い眼差しが私を貫く。

「生贄を捧げるか」  

今まで聞いたことがない冷たい声に手足が震える。

「そしてこういった存在の類は、後者が多いものだよ」  

「そ……そんなの……」  

溢れたのは恐怖とは別の感情だった。   

深くまで罅が入った胸の奥底の何かが砕ける。

「そんなの分かんないじゃん!」  

声を荒らげた私に、ミコトくんの目が見開かれ、さっきまでの妖しい雰囲気が消える。

「落ち着いて。もしもの話だよ」 

「だけどミコトくんが、私が先生と会うことに反対な気持ちは本当なんでしょ!?」

「っ……それは」  

ミコトくんが言葉に詰まる。

「先生が本物の魔法使いかどうかなんて関係ない! 私は先生のバレエが好きなの!」

「うん……わかってる、わかってるけど」

「何にもわかってないよ!」  

とまっていたと思った涙がとめどなく零れていく。

同時に込み上げてくる言葉を制することなどできなくなっていた。 

「先生を悪者みたいに言わないで! 先生のこと何も知らないくせに!!」

「そんなつもりじゃ……! 明葉のことを思って僕は……」  

震えていた言葉を待つ余裕なんてもうなくて。

「ミコトくんなんて……、ミコトくんなんて、大っ嫌い!!」  

気づけば私は走り出していた。  

感情のままに発せられた言葉に、自分でも耳を疑いたかった。それを認めたくなかっただけかもしれない。逃げたかっただけかもしれない。  

胸の奥で砕けたそれは、鋭いガラス片みたいに私に刺さる。

「明葉っ……!」  

沈んでしまった夕日がそれを溶かすことなんてもうできず、夜風が痛みを巡らせるだけだった。

 

「……どうして、こうなるんだろうなぁ」

――影のひとりごとは、行く宛てもないまま宵の空へと吹かれていく。

bottom of page